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​甲府大空襲

甲府空襲は、1945年7月6日から7月7日未明にかけて発生したため、「たなばた空襲」とも呼ばれている。

6日夜、子供たちは七夕の短冊に願い事を書いていたことだろう。当時、甲府市は東京からの疎開学童も多く、遠く離れた両親や家族との再会を願った子供たちも多かった筈である。しかし、子供たちの夢は無残にも打ち砕かれた。 

被害戸数18,094戸、甲府市は市街地の74%乃至79%が灰燼に帰した中、連隊司令部や兵舎は無傷であったが、消火に駆けつけた兵士はごく僅かであったという。

甲府市郊外にあった陸軍玉穂飛行場からは空襲が始まってから終わるまで遂に一機の迎撃機に飛び立たず、一発の対空射撃も行われなかった。

又、栄和高等女学校に駐屯していた陸軍兵士は、ただうろうろするだけだったり、中には逃げ出す兵士もいたという。 

空襲による死者 1,127名 (男性499名、女性628名)

二度と過ちを繰り返させないためと、平和の尊さ、平和と民主主義を守る、誓いとして、後世に残す為ここに記す。
​          東日本旅客鉄道労働組合 八王子支部 小澤 康秀
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